2026年2月15日(日)
参加者:3名
脱ジェンダーロールの会 第十九回
「ジェンダー思想家たちの地図」
第十九回目の脱ジェンダーロール会では、藤高和輝著の『<トラブル>としてのフェミニズム「取り乱させない抑圧」に抗して』の第一部を読み話し合いました。前回の反省として「誰の思想を辿っているのか分からなくなる」という課題があったため、テキストに登場するジェンダー思想家たちのポートレートをテーブルに広げ、視覚的にそれぞれの立ち位置を整理しながら意見交換を行いました。
「堂々巡り」の対立を越えて
テキストを辿るなかで率直な感想として挙がったのは、同じ「ジェンダー」を主題にしていても、立場の違いから鋭く対立し、互いを責め合う構造に陥ってしまうことへの戸惑いでした。一方が正解で他方が間違いという二元論ではなく、違うものであることを前提としながら、同じ地平に共存させる。「共通性と差異」を同時に認める姿勢が、終わりのない堂々巡りから抜け出す鍵になるのではないか、という対話が交わされました。
「フェミニズム」という総称への違和感
また、これらの多岐にわたる議論を「フェミニズム」という一言で括ってしまうことへの違和感も共有されました。本質的にこれは女性運動に留まらず、トランスジェンダーの運動や、あらゆるジェンダーの在り方を問う営みでもあります。「フェミニズム」という総称が、かえって議論の幅を狭めたり、誤解を招いたりするのではないか。もっと包括的で、実態に即した別の言葉が必要なのではないか。既存の言葉の枠組みに疑問を投げかけ、より適切な言葉を探そうとする問いかけと共に今回のセッションは幕を開けました。
1.男・女は政治的なカテゴリーである
政治的カテゴリーと個人の乖離
ウィティッグは、異性愛社会という制度のなかで、人は「男・女」という政治的な枠組みに押し込められていると説きました。この「政治的カテゴリー」という視点は、社会構造を理解する上では非常に明快ですが、異性愛社会という物語(理論)を突きつけられると、自分の内側にある個人的な感覚がどこか遠くに追いやられてしまうようだという率直な声が上がりました。
一方で、自分の内なる感覚が社会的な枠組みによっていかに塗りつぶされているか、政治的カテゴリーという視点はその事実を具体的に見出す契機ともなりえるのではないかという意見もありました。理論に照らされることで、これまで無意識に抑圧されていた「個人の微細な感覚」が、逆説的に浮き彫りになるという気づきが共有されました。
「すべての問題がジェンダー」ではないという視点
チャンドラ・タルパデ・モーハンティの指摘を引用しつつ、「あらゆる問題を性差に還元してしまう危うさ」についても考えました。例えば、ベールを纏う女性を「抑圧された存在」と一律に決めつけるのは、あまりに一面的な見方かもしれません。私たちが動かされているのは「どこにもいない女」という性別の理想像だけでなく、「どこにもいない階級」や「上下関係(先輩・後輩)」といった別の力学であることも多いはずです。「これはジェンダーの問題だ」と言い切れてしまうことへの怖さ。その言葉が、個々の複雑な背景や階級的な事情を塗りつぶしてしまうのではないか、という懸念が共有されました。
2.性被害の当事者が声を上げることの難しさ
二つの「サバイバーへの肯定と、直面する「現実」
議論の出発点となったのは、作家・アルテイシアさんが発信し続けている「サバイバーよ、生きているだけでいい」というメッセージです。被害に遭いながらも、今日まで生き抜いてきたことそのものを肯定するこの言葉は、多くの当事者にとって救いとなります。しかし、その肯定を受け取ったとしても、「被害を受けたという事実」を無かったことにすることはできません。 私たちはそこから、どうすれば当事者が沈黙の中に痛みを飲み込まずに済むのか、という問いに向き合いました。
司法・捜査の場で繰り返される「二次被害」
声を上げようとする当事者を阻む最大の壁の一つが、事実確認の過程で起こる二次被害です。
例えば、同意の有無を確認する事情聴取。人形を使って被害状況を詳細に説明させられるといったプロセスは、当事者にトラウマを強制的に反芻させる行為であり、心にさらなる深い傷を負うことになりかねません。「真実を明らかにするため」という名目のもとで、当事者の心が削られていく現実。この構造が変わらない限り、声を上げることのリスクはあまりに高すぎるのではないか、という意見が交わされました。
「いいことではない」と伝える性教育
特に家庭内での性被害については、子どもたちが「これはおかしい」と自ら気づける環境を作ることが重要です。現在の性教育の現場では、「自分の体に不快な形で触れられることは、決して良いことではない」という境界線(プライベートゾーン)の概念を伝える取り組みが進められています。幼少期からこの感覚を養い、「嫌だと言っていい」という認識を持つことが、将来的な沈黙を防ぐための一歩になります。
沈黙を強いない「取り乱せる場所」
議論の終盤、知識としての教育と並んで、感情を吐き出せる「取り乱せる環境」の尊さが浮き彫りになりました。声を上げるとは、理路整然と語ることだけではありません。怒りをぶつける、支離滅裂に泣き叫ぶ。それらを「取り乱すこと」として許容し、受け止める「感情の安全地帯」があれば、二次被害を恐れて沈黙を選ばざるを得ない人たちにとっての希望になるのではないかと話されました。
3.「どこにもいない女・男」という呪縛と戦略
田中美津さんのエピソードを入り口に、私たちの日常に潜む「演じられた性」について語り合いました。田中美津さんはかつて、「男はこういう正座をしている女が好きだろう」と無意識に姿勢を整えてしまう自分の中に、実体のない「どこにもいない女」の影を見たと記しています。この「どこにもいない理想像」に突き動かされる感覚について、参加者それぞれの経験から多様な視点が提示されました。
声のトーンと「安心感」の演出
まず話題に上がったのは、電話応対などの発声についてです。相手に安心感を与えるための手法が、性別によって無意識に使い分けられているのではないかという指摘がありました。 「声を高くするのか、あえて下げるのか」――その選択の背景には、社会から求められる「どこにもいない女・男」を演じ、自らの声を「整えて」しまうジェンダー的な力学が働いているのかもしれません。
「聞き役」というケア労働
コミュニケーションの場において、一方的に話す相手をサポートするように聞き役に回る自分に、「どこにもいない女」を演じている感覚を抱くという意見もありました。 なぜ、場を調整しサポートする側に回ることに「女性性」を感じてしまうのか。この問いは、私たちの社会がいかに「ケアやサポート」を特定の性に結びつけて内面化させているかを浮き彫りにしました。
社会と対峙する「武装」としての身体
「どこにもいない男女」の存在は、社会という集団に対峙した瞬間に強く意識されます。集団の中ではハキハキと話さなければならない。求められる役割に応えようとしてしまう。こうした「社会的な要請」に応え続ける身体から解放されたい、「何者でもない、役に立たない存在になりたい」という切実な願いも共有されました。一方で、この「どこにもいない男女」を戦略的な「武装」として捉える意見もありました。田中美津さんがネガティブに捉えた概念を、現代を生き抜くためのツールとしてあえて使いこなすしたたかな生存戦略の在り方も見受けられるという意見もありました。
4. 断定することと揺らいでいること
「言い切る言葉」と、こぼれ落ちる「身体性」
様々な理論に触れる中で、「社会構造はこうである」と断定してしまうとき、私たちの身体性はそこからこぼれ落ちてしまうような感覚を覚える参加者がいました。身体は本来、もっと多様であいまいで、言葉で言い切れるほど単純なものではなさそうです。「ある」と言い切る言葉の強さが、かえって一人ひとりの実感を消し去り、対立を生んでしまうのではないかという懸念が示されました。
どちらかではない「揺らぎ」の中に居続けること
議論の終着点として浮かび上がったのは、強固な定義に自分を当てはめるのではなく、「どちらか」に決めつけない「間」に落ち着くという姿勢です。大きな理論に回収されるのではなく、もっと自分自身の身体が感じる、名付けようのない感覚を大切に語ること。白黒つける言葉ではなく、その中間にあるグラデーションや著者がのべているように「揺らぎ」の中に居場所を見出すこと。それが、理論の強さに飲み込まれず、自分たちの実感を守りながら対話を続けるための、一つの知恵なのかもしれません。
記録:ダンシロウ
参考文献:
<トラブル>としてのフェミニズム「取り乱させない抑圧」に抗して
藤高和輝/ 著
第ニ部 <取り乱し>のフェミニズム
一章 「取り乱させない抑圧」抗してジュディスバトラーと田中美津
二章 インターセクショナルフェミニズムから/へ
三章 取り乱しを引き受けること
四章 「フェミニズム」に賭けられているもの