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母系社会、本能とジェンダー

    2025年12月28日(日)

    参加者:6名

    ジェンダーロールを乗り越えようの会 第十七回

    「母系社会、本能とジェンダー」

    第十七回となる今回のジェンダーロール勉強会では、橘木俊詔著「男性という孤独な存在」の第4章「父親という存在の実像」第5章 「雄のいらない動物からの示唆」を読み、意見交換を行いました。

    今回の議論では、著者の表現に対して参加者から複数の違和感が挙げられそれぞれの意見や想いが語られました。


     母系社会とは?父系社会の継承と従属関係と比較して

    とりわけ、「母系社会の復活への恐れ」という著者の言い回しをきっかけに、なぜ著者は母系社会に不安を感じているのか、またこの本は誰に向けて書かれているのかについて話し合われました。その中で、著者と同世代の男性で、同じような不安を抱いている人たちを主な読者として想定しているのではないかという意見が出ました。

    また、母系社会の事例として、ユダヤ教が母系によって継承されるという点が取り上げられました。父系社会では、家を継ぐ存在として男の子が生まれることが喜ばれてきた歴史がありますが、母系社会であるユダヤ教の場合には、女の子が生まれることはどのような意味をもって受け止められてきたのだろうか、という疑問が投げかけられました。

    さらに、「女性は出産を望む」といった記述についても、女性に対する著者自身の固定的なイメージが反映されているのではないか、という指摘がありました。書籍に掲載されている統計データについては、それぞれの読み取り方を確認し合うことができた一方で、男女間の暴力に関する棒グラフにおいて「男性が被害を受けることに驚く」と記す著者の受け止め方に触れ、データの解釈は読み手の価値観によって大きく左右されることが改めて意識されました。

    夫婦別姓が日本では認められていないことに、海外在住の参加者はよく驚かれると話しました。スペインでは子どもが両親のどちらかの姓を選べるという事例も共有され、家族のあり方や常識は文化によって異なることが確認されました。本書で取り上げられている父親のいないナイヤール人の事例をきっかけに、家族とは何か、所有や独占の感覚についても議論が広がり、ポリアモリーという家族の形にも話題が及びました。


     無償労働をどう捉えるか

    続いて、無償労働をめぐる議論へと移りました。家事や育児を無償労働と呼ぶこと自体に違和感を覚える参加者もおり、人はそもそも労働のために生きているのではなく、生活そのものを営んでいるはずではないか、という意見が出ました。

    ご飯を食べることは無償労働とは呼ばれない一方で、ご飯を作ることは無償労働とされるのはなぜなのか。ご飯を作る行為も、生きるために行っていることであり、必ずしも労働と呼ぶべきものではないのではないか、という問いが投げかけられました。さらに、化粧や身支度、人をもてなす行為は労働なのかといった話題にも及び、無償労働と呼ばれる行為の線引きはどこから来ているのかについて意見が交わされました。

    また、有償労働している人が、無償労働をする人を無意識のうちに低く評価してしまう構造があるのではないか、という指摘もありました。その結果、無償労働に価値を見出すために無償労働という言葉が使われてきた一方で、家事やケアが労働として回収されてしまうことへの違和感も語られました。

    さらに、男性が料理をすると趣味や特技として評価される一方で、主婦の料理は無償労働とされる点についても話題に上がりました。男の料理教室や女のDIYといった、性別を冠した教室の存在については、参加しにくさを和らげ、居場所として機能している側面がある一方で、固定的な性別イメージを再生産してしまっている現実も指摘されました。


     生物学がもたらす多様性理解について

    精子が一つの卵子を目指して競争するという、いわゆる精子戦争(ベイガーの概念)を用いて男性の攻撃性を説明する言説については、その過程を経て男性も女性も生まれることを考えると、単純には納得できないのではないか、という疑問が共有されました。精子戦争や孔雀の求愛行動、霊長類と人間との比較は、一見すると分かりやすく説得力があるように感じられるものの、それを人間社会にそのまま当てはめてよいのかという点が問題として挙げられました。

    また、ボノボやチンパンジーの性行動についても、それがどのような視点から解釈されているのかが話題となりました。霊長類との比較によって説明された瞬間に、生物学的にそうなのならと納得してしまう感覚そのものに、違和感を覚えるという意見も出ました。

    一つの見方として、自由な性行動を肯定するために、厳格なキリスト教的理解を相対化し、神が創ったものは完璧であるという聖書解釈に基づいて信者の理解を得るために、このような論述が用いられてきたのではないかという指摘もありました。その一方で、なぜ霊長類との比較を介さなければ、目の前にいる人間の多様な性を受け入れることができないのか、という疑問も投げかけられました。

    さらに、人間は理性によって本能が見えにくくなっている生き物であるがゆえに、人間も本来はこうなのかもしれないと理解する手がかりとして、生物学的解釈を取り入れようとしているのではないか、という見方も示されました。

    記録:ダンシロウ


    参考文献:

    「男性という孤独な存在」 橘木俊詔 著

    第4章 父親という存在の実像
    第5章 雄のいらない動物からの示唆家族のかたち」の変容


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