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私という矛盾を生きる

    2026年4月26日(日)

    Participants: 5

    ジェンダーロールの会 第二十一回

    私という矛盾を生きる

    二十一回の「脱ジェンダーロール会」では、田中美津著『この星は、私の星じゃない』をテキストに、意見交換を行いました。ウーマンリブという運動の背景を紐解きながら、矛盾をありのままに抱えて生きることの可能性について語り合いました。

    ウーマンリブ運動への視座

    会の冒頭では、平塚らいてうによる「第一波フェミニズム」から、自らの身体性を主張した田中美津さんらの「第二波フェミニズム(ウーマンリブ)」へと、運動のフェーズがどう移り変わったのかを振り返りました。

    また、当時の空気感を理解するため、ウーマンリブと同時並行で進行していた連合赤軍の出来事についても概要を整理し、時代の熱狂と光と影を共有することから会はスタートしました。


    「一人前」とマチズムの再考

    核保有をめぐり、国が「一人前」を目指す姿勢を「マチズム(男性優位主義)」と表現することに議論が及びました。「一人前」という言葉をマチズムと呼んでしまうと、稼ぐことや勝ち抜くことだけを「一人前」と定義づける、既存の偏ったジェンダーの価値観に回収されてしまうのではないか。そんな懸念が共有されました。

    時代と共に法体系や言葉がアップデートされるように、他者を排除して誇示する性質を指す際、「マチズム」というジェンダーに結びついた言葉を使うのではなく、もっと本質的な呼び名を探るべきではないかという意見も上がりました。本来の「一人前」や「自立」とは、弱さを隠さず「虚弱である」と認められることや、資源を奪い合うのではなく分け合い、助け合えることにあるはずではないかという意見もありました。特定のジェンダーに付随しない、「一人前を誇示する性質」を言い表す新しい言葉が必要なのではないか、という問いも生まれました。


    「ママ」という役割と「私」

    最近SNSで目にする「#ママ戦争止めてくるわ」という言葉についても話し合われました。「ママ」という呼称を使うことで、子どもの未来を暗に示し、共感を生みやすくした手法に対して、「母ではない『個』としての叫びがこぼれ落ちてしまう」という違和感が示されました。
    ママという「役割」を盾にすることで平和を願うのではなく、ただの「私」として政治や社会と向き合いたい。ママという呼称が役割を押し付けられているように感じてしまうという意見も共有されました。


     年齢と、自分らしくあること

    田中美津さんの言葉には、矛盾を抱えたままの自分を丸ごと引き受ける強さがあります。その中で、若く見られる喜びと、席を譲られるという配慮を喜ぶ気持ち――そんな矛盾した状態を同時に受け止める心境について語り合いました。

    議論の中では、「若く見られるなら、あえて訂正したくない」という男性参加者の率直な声も上がりました。日本語には年齢によって言葉遣いが変わるという特性があるからこそ、年齢というフィルターを外してフラットに接してほしいという願いが、結果として「年齢を隠す」という行為に繋がっているのかもしれない、という意見も出ました。また、男性には年齢を聞くことが許容されても、女性に対しては「聞かない」という風習がある点について、それが妊娠適齢期といった社会的な視線と関係しているのではないか、という点ついても話が及びました。

    一方で、これまで「若く見られること」を肯定していた人が、そう見られなくなった時の喪失感についても話題にのぼりました。それは単に見た目の変化だけでなく、積み重ねてきた人間としての成熟よりも、「フレッシュさの欠如」だけを突きつけられたような、寂しさや違和感を伴うものでした。

    「若く見せたい」という執着や、「モテ」を意識した期待される女性像をどこまで手放すのか。矛盾を抱えたまま、それすらも一つの成熟として味わい、年齢という枠を超えて「私」として存在し続けること。そんな新しい生き方の可能性が、参加者の間で問いとして共有されました。


    自分らしくいられる「余白」を求めて

    田中美津さんが語った「おしりを触られたくないけれど、触られたいお尻になりたい」という矛盾。その白黒つかない両義的な思いを飲み込まずに済む環境とは、どのような場所なのでしょうか。

    議論は、「正しさ」を突き詰めた果てに暴力(リンチ)へと至った連合赤軍の悲劇から、現代の私たちの日常へと及びました。家族という身近な場であっても、義実家での緊張感や、実親との関係性の中で、私たちは無意識のうちに自分の思いを飲み込んでしまい、それが身体の不調として表れることがあります。

    一方で、誰でも自由に言い合える環境であれば解決するのか、という点についても意見が交わされました。ただ言いたい放題の場では、結局「パワーを持つ者」の声が通り、新たな支配が生まれてしまう。大切なのは、互いの「聞く姿勢」が整った土台の上で、自分の意思を表明できること――そんな健全な環境のあり方が模索されました。

    ここで共有されたのが、こんな比喩でした。 「大きな石をみんなで運ぶには、掛け声をかけてタイミングを揃える必要がある。でも、その石を砕いて小さな石にすれば、それぞれのタイミングで運ぶことができる」

    みんなで足並みを揃えようとする強制的な連帯こそが、「正しさの強要」を生んでしまうのかもしれません。一人ひとりが個としてのリズムを保ちながら、互いの声を聞き合える距離感を見つけること。そんな「小さな石を運ぶような」しなやかな関係性こそが、私たちが目指したい場所なのではないか、という問いが投げかけられました。

    Notes: Danshiro


    References:

    「この星は、私の星じゃない」

    田中美津/ 著

    I 震災後を生きる

    II いのちをみつめて

    III ここにいる私


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