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なぜトラブルなのか?

    2026年1月18日(日)

    参加者:4名

    ジェンダーロールの会 第十八回

    「なぜトラブルなのか?」

    第十八回目の脱ジェンダーロール会では、哲学的なジュディスバトラーの『ジェンダートラブル』の読解のため、藤高和輝著の『<トラブル>としてのフェミニズム「取り乱させない抑圧」に抗して』の第一部を読み話し合いました。


     トラブルを招くのは何か?

    違和感を声に出すことは時にトラブルを招きます。読書会では、違和感を口にすることの肯定的な側面を確認しつつ、なぜそれはトラブルに発展してしまうのかについて意見を交わしました。

    トラブルが社会を変える契機になる

    本書では、トラブルが社会変革の呼び水となった事例として、日本の「保育園落ちた」問題が取り上げられています。一人の切実な嘆きが拡散され、共感を呼ぶことで大きな動きとなりました。読書会でも、これに続く様々な事例が共有されました。

    日常の中にある武装と判断

    参加者からは、身近な葛藤としてマニキュアの話題が上がりました。「会社にマニキュアを塗っていきたいが、周囲から違和感を指摘された際の説明コストを考えると、結局塗らずに出社してしまう」という声です。

    これに対し、社会に出るための身支度についての鋭い意見も出されました。

    「誰しも、何の身支度や準備もせずに外へ出ればトラブルになり得る。私たちは何かしらの武装をして社会と対峙しており、トラブルを起こすか否かの判断は、家を出る前の身支度の段階で日常的に行っているのではないか」

    得体の知れないものへの拒絶

    男性の傘の差し方を巡るトラブルも共有されました。モネの絵画のように、傘の柄を肩に担ぐように持っていたところ、「女みたいだ」と咎められた事例です。ここから、見たことのない仕草や、既存の枠組みに収まらない得体の知れないものに触れたとき、人は拒絶反応を示し、それがトラブルになるのではないか」という考察がなされました。

    トラブルの境界線と身体化

    一方で、価値観のアップデートによりトラブルは解消されるという指摘もありました。「男の子が髪を伸ばしたりマニキュアを塗ったりすることが当たり前になり、周囲が違和感を抱かなくなれば、それはもはやトラブルにはならない」という意見です。何がトラブルになるかは、個人の思い込みや社会の慣習に依存している側面もあります。

    最後に、 バトラーが提唱する「トラブルとは、男や女という規範を模倣しようとして生じる『失敗の身体化』である」という説について議論しました。参加者からは、

    • 「「失敗」という言葉よりも、もっと肯定的な「素直な身体化」と言い換えられるのではないか」
    • 「よりポジティブな表現で、自分自身のあり方を肯定的に捉えたい」 といった前向きな提案がなされました。


     普遍が孕む問題

    対話の中で「普遍とは何か」という問いが浮上し、私たちがこの言葉を無意識に二つの異なる意味で使い分けているのではないか、という視点が示されました。

    二つの「普遍」の定義

    まず、言葉の定義を整理すると、以下の二種類に分けられます。

    1. 静的な普遍:時代を超えて変わることのない、流動性のないもの。
    2. 動的な普遍:今を生きる人々に広く当てはまる、流動的な社会通念としてのもの。

    議論において、互いがどちらの「普遍」を指して話しているのかが食い違うと、対話が噛み合わなくなるという重要な気づきがありました。

    普遍の名の下に排除される「個人」

    また、「女性はこういうのが好きだから喜ばれる」といった言説に対し、それは「女性を代表した誰か一人の意見」に過ぎないのではないか、という疑問も呈されました。 「普遍的である」という決めつけは、その枠組みから外れる個人を透明化し、排除してしまう危険性を孕んでいます。

    「一括り」にすることの危うさ

    同様の問題は、育児などのライフステージに関する語りにも見られました。

    • 属性の一般化:「子育て中はこういうものだ」と一括りにしてしまうこと。
    • 「私たちは」という主語:集団意識から発せられるこの言葉が、特定の誰かを限定・定義し、枠に当てはまらない人を疎外してしまう可能性。

    「普遍」や「私たち」という言葉を使うとき、その影で誰かの個別性が損なわれていないか。その「主語の大きさ」に対して、常に自覚的である必要性が指摘されました。


     アイデンティティを引き受けるとは?

    日本人、女性、男性、LGBT などのカテゴリーに自分を当てはめることについて、「私が何をするかが私のアイデンティティであり、安易に何かに定義づけられてしまうことには違和感がある」という意見が出されました。

    一方で、そうしたカテゴリーによって自分の存在が社会的に認識されることで、立つための足場ができ、共感や承認を得られた経験も共有されました。カテゴリーを通して社会的な存在として位置づけられることで、社会と関わることができた、という実感が語られました。

    しかし同時に、カテゴリーを選ぶ以前に、男でも女でもない「ただ在る存在」としての自分がいるのではないか、求められている役割や「こうあるべき」という枠組みから離れたかたちで存在していたい、という思いも示されました。

    「こうあるべき」という意識を内面化している限り、そのカテゴリーを引き受けて生きていることになるのではないか、という問いも投げかけられました。

    カテゴリーを一度引き受けて生きていくことには違和感が伴うものの、それを受け入れることで社会との接点が生まれるという側面もあり、その間で揺れ動く感覚自体が共有されました。

    記録:ダンシロウ


    参考文献:

    <トラブル>としてのフェミニズム「取り乱させない抑圧」に抗して

    藤高和輝/ 著

    第一部 <トラブル>の哲学

    一章 トラブルに未来はあるのか?

    二章 いまだ実現されていないもの

    三章 実存とトラブル


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