
2026年5月31日(日)
参加者:5名
脱ジェンダーロールの会 第二十二回
「身の回りから始まるウーマンリブ」
今回のラウンドテーブルでは、日本のウーマンリブ運動を牽引した田中美津さんの著書『この星は、私の星じゃない』第四章と第五章から対話を交わしました。
大きな社会の変革を目指すことよりもまずは自分自身を解放し、自分の「ぐるり(身の回り)」の問題から考えていくウーマンリブ。いつものように、今回も身の回りの問題から議論が進んでいきました。
やり過ごした性被害の記憶と、境界線の性教育
かつて幼少期に性被害を受け、大人になるまで「汚れた女」という自分自身の物語の中に閉じ込められていた田中美津さん。彼女はのちに「差別してくる社会の方が悪いんだ」と気づいたことで、徐々に自分の言葉を獲得していきました。
この歩みを出発点に、読書会の前半では、参加者が子ども時代に受けた性被害の経験が共有されました。アルバイトや習い事などで受けた被害の状況について振り返りながら、適切な対応が何だったのか、それぞれに考えを巡らせました。
議論の中で共感を集めたのは、加害側が何事もなかったかのように振る舞う中で、自分自身も「何も起こっていなかった」かのように振る舞ってしまい、すぐにはその場を辞められず、親にも言えずにやり過ごした記憶です。家族に打ち明けても夢でも見ているんじゃないのと誤認され、起こっていないふりをしてしまう親もいると聞きますが、田中さんの親はそうではありませんでした。しかし、それでも被害の傷は残ります。
また、性被害に遭ってしまったときにどのような対処が適切なのかを話し合う中で、子ども同士の遊びの境界線についても話が及びました。おままごとの延長で行われる「お医者さんごっこ」など、境界線が曖昧になる状況を性被害と呼んでいいのか、長じて親はどう対処するべきなのかが問い直されました。
現代の性教育は当時よりも進み、「あなたの身体はあなたのもの」と言葉で伝え、3歳からプライベートゾーンの大切さを教えるようになってきています。性被害に遭った傷を自責にさせない地盤をどう作っていくかについて、参加者一同で考えを巡らせる時間となりました。
いい嫁のロールと、食卓のパワーバランス
読書会の中盤では、田中美津さんの「学生運動期の『運動に参加していない女性を嫁に迎えたい』という男性の言動」や、20代〜30代のカップルの間で起きた「食」をめぐるエピソードを起点に、現代も形を変えて残る「嫁」の理想像や生活の場のジェンダーロールについて議論しました。
女性から「今日は外食にしていい?」と電話があり、男性が「お惣菜とか買う感じにしたら?」と返して帰宅したところ、なぜか女性は料理を作って待っており、2人で食べている最中に突然泣き出してしまったといいます。男性側には理由が分からず謎の涙と映りましたが、ここには食卓のパワーバランスが潜んでいます。
「外食にしていい?」とお伺いを立てる時点で食事の決定権が女性側にないこと。自分が用意する係であるという認識や、手抜きをしてはいけないという目に見えない抑圧と戦い、疲れ果ててしまっている女性の姿です。そこには、固定化された性役割を内面化してしまう、根深い嫁入り意識の危うさが令和の今も残っていることが指摘されました。
結婚前に不安定になるマリッジブルーは、ホルモンバランスが影響するマタニティブルーとは異なり、これからの生活への不安から生じるものです。だからこそ、ただの情緒不安定として片付けるのではなく、男女の不平等感やモヤモヤを解消するために、日々の生活における根本的な価値観を互いに確認し合い、対話を重ねていくことが必要なのではないかと話されました。
また、プロの料理人の多くは男性なのに家庭料理は女性が担うという認識の根強さや、男性がお弁当を自作するだけで周囲から過剰に感心される現状も共有されました。
自分の欲望を犠牲にしない「イヤリングの革命」
続いて議論が深まったのは、本書に登場する「男並みの平等を求めて、上位から認めてもらう形で進むのではなく、イヤリングしながら革命する道もあったのに」という田中美津さんのフレーズです。また、自立しようとしながらも社会や男性に流され、自分を犠牲にしてしまう女性の生きづらさについて、本の中で「川に行ってしまう女」という表現がされていることについても確認しました。
かつての学生運動や男社会のスポーツ界では、女性が参入する際に「男性と同化すること(装いを捨てる覚悟)」が暗に求められていました。しかし田中さんは、生活の彩りやおしゃれを排除して自分を犠牲にするやり方は、特攻隊のような危うさにつながってしまうと指摘します。現代では男性向けのアクセサリーも増えていますが、当時における「イヤリング」とは、自らの女性性や固有のあり方を手放さないまま闘うという意味合いが強かったのではないか、という意見が交わされました。
その流れから、スポーツの世界でも、かつて伊達公子さんやシャラポワ選手がネックレスやイヤリングをしてコートに立った際、勝ち負けだけの男社会的な空間に「装飾」を持ち込んだとしてセンセーショナルに扱われた事例が、参加者から挙げられました。それこそが、男性と同化して自分を捨てるのではなく、自分の欲望を犠牲にしない生活を掴み取っていくという「イヤリングをしながら革命」の姿勢だったのです。自分の身の回りの地続きにある日常や身体を大切にしながら生きることこそが、ウーマンリブの目指した地平でした。
参加者からは、社会全体の解放も大事だけど、まずは自分を解放するために自分の「ぐるり」の問題からジェンダーに取り組みたいという声や、母の役割を抜けて飲みに行く罪悪感、理想の母親像による自己犠牲も語られました。また、田中美津さんが映像の中でユーモラスに歌っていた「(男を)パクりましょうね」という歌を聴いて、男社会と正面から戦って疲弊するのではなく、あのくらいフランクな距離感とユーモアがいいという感想も上がりました。これらに共通するのは、まさに自らの欲望を大切に生きるという「イヤリングをつけた革命」の実践なのだと考えさせられる時間となりました。
ふわふわ言葉の先にある本音
読書会の最後には、本書の第5章に描かれている伊藤比呂美さんと田中美津さんの、手紙を通した対立が話題にのぼりました。感情をダイレクトに伝え、相手の何かを引き出していく往復書簡の巧みさと二人の生身のやり取りをきっかけに、現代社会の言葉のあり方や、家族の中での対話へと議論が広がっていきました。
最近の学校や社会では「トゲトゲ言葉を使わないで、ふわふわ言葉を使いましょう」という言葉の管理がなされているという事例が共有されました。しかし、「揉め事をなくしたい管理側の都合で言葉を綺麗に整えてしまうと、感情の揺れ動きまで封じ込めてしまう」と違和感が集まりました。大事なのは、関係性が壊れるのを恐れずに安心して対話ができる場所があること。二人のようなやり取りの中からこそ、洗練された本音の言葉が引き出されていくようです。
家族会議や夫婦会議においても、言葉にならない子どもの主張を拾ったり、大きな買い物の際に夫婦間で決断のタイミングがずれるとき、足並みが揃うのを待って本音の対話を模索しているという参加者もいました。
こうした他人の本音とどう向き合うかという話から、自分の存在や本音をどう確認していくかという問いへと広がりました。まちづくりで挨拶を交わすことで自分の居場所を感じたり、筋トレや踊りなどで身体を使うことでダイレクトに自分の存在を確認する人もいます。平日の夜に母の役割を抜けて飲みに行く時間や、自分の肌に保湿クリームを塗ってケアする時間など、自分の身体の声に耳を澄ませるひとときが、自分の本音と向き合う時間になっているという意見も出ました。
記録:ダンシロウ
参考文献:
「この星は、私の星じゃない」
田中美津/ 著
IV 女たちとの対話
V またいつか、どこかで
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